2023年春、どういうわけか7 MEN 侍の沼に落っこちまして、
新規ハイのテンションのまま、勢いと行動せずに後悔したくないという気持ちで情報局に入り、ライブに申し込み、無事初7 MEN 侍を浴びてきました。
Make 侍 Noise、最高でした。
いろいろ理由を挙げていかにこのライブが素晴らしかったかを述べることはできるけれど、
何よりライブの中で、無意識のうちにテンションが上がって、声を出すのが楽しくなっていたことがすべてだなぁと思います。(コロナ前から大声を出すことに抵抗があるタイプだったので尚更)
なのですが、ここでは敢えてMake 侍 Noiseと7 MEN 侍の素晴らしさをゴリゴリの理論を使って証明してやろうと思います。
そのきっかけは、ゆゆさんのこちらのブログ。
suki-zakki.hatenablog.com
とても素敵なブログなのでぜひ。
そして今回私がこのブログを書くにあたって引用させていただいてもいいか伺ったら快く許可してくださったゆゆさんほんとうにありがとうございます…
さて、本題。
実は(?)普段大学で批評理論を学んでいるのですが、
そこで扱っている批評理論がMake 侍 Noiseのコンセプトひいては7 MEN 侍のグループとしての在り方にぴったり合うのではないかと、ゆゆさんのブログを拝読して気づきまして。
今回はその批評理論を使って分析していこうと思います。
使う批評理論は、「脱構築」と「オリエンタリズム」です。
ここから先しばらく理論の話になるので読んでくださっている方はなんのこっちゃという感じになりそうですが、
理論の中身を知らないと何も伝わらないと思うので、
たかが大学生の知識ですが温かい目で、しばしお付き合いいただければ幸いです。
まず、脱構築について。
脱構築とは、哲学者のジャック・デリダが立ち上げた概念です。
脱構築の背景には、構造主義があるのですが、それについて書いていると長くなってしまうので、
文字通り物事には潜在的に構造があると捉える考え方だと思っていてもらえれば大丈夫です。
構造主義の中で最もわかりやすいのが二項対立。「A⇔B」というような、二つのものが対立している、また反対の要素を持っている構造のことです。
例えば、「男⇔女」も二項対立として挙げられます。
この二項対立という構造を壊すのが、フランスの哲学者であるジャック・デリダが立ち上げた脱構築です。
デリダが脱構築の対象としているのは、優劣関係のある二項対立です。
そして、二項対立を構成する二つのものの中から、共通する要素を取り出すことで対立構造をなし崩しにします。
この「優劣関係のある二項対立をなし崩しにすること」を脱構築と言います。
なぜ共通する要素を取り出すと構造を崩すことができるのかということを、先ほど挙げた「男⇔女」の例を使って説明します。
昨今はこういった考え方はなくなりつつあると思いますが、
男性=論理的
女性=感情的
といったイデオロギーがあるとします。
そして、このイデオロギーには、「男性は論理的判断ができるから優れている」「女性は感情的で論理的判断ができないから劣っている」という優劣関係がなんとなく感じられますよね。
しかし、当たり前ですが、感情的な男性もいれば論理的な女性もいます。
つまり、“論理的”という要素も、“感情的”という要素も、性別に関係なく共通する要素というわけです。
こうなってしまえば、「男⇔女」という対立関係は崩すことができます。
なぜなら、二項対立は「片方が持つ要素をもう片方は持っていない」ということを前提にしている関係だからです。
“論理的”という要素は男性も女性も持っているし、“感情的”という要素も男女問わず持っています。
じゃあ同じ要素を持っているなら男女って分けられなくない?男性の方が優位だと思われてきたけどそんなことないよね?という具合です。
次に、オリエンタリズムについて。
オリエンタリズムは、単に「東洋的」「東洋主義」という意味でも使いますが、
ここではアメリカの批評理論家であるエドワード・サイードが『オリエンタリズム』という本で定義づけた考え方を扱います。
オリエンタリズムの考え方では、「西洋は自らの野蛮な側面を東洋に押し付けることで、西洋の理性的な文化を成り立たせている」とされています。
つまり、「西洋⇔東洋」という「西洋の方が優れている二項対立」を成り立たせるために、西洋は自らの劣った側面を東洋に押し付けているのです。
さらに、東洋もこの構造を内面化して「西洋の方が優れている」と感じ、
「劣った側面をなくして西洋に早く近づかなければ」と考えたり、反対に「押し付けられた役割を文化として売り出していこう」とする現実もあります。
少し余談ですが、オリエンタリズムも脱構築することができます。
「西洋が二項対立を成り立たせるために劣った側面を押し付けた」ということは、
「もともと西洋にも劣った側面があった」ということでもありますよね。
つまり、ここでも二項対立を構成する二つのものに共通する要素があると言えます。
西洋にも東洋にも劣った側面という要素はあるということです。
それなら、「西洋⇔東洋」という二項対立は崩すことができますよね、西洋の方が優れているという価値観も成立しないことになるわけです。
理論の説明はここまで!
というわけで、これらの理論がMake 侍 Noiseと7 MEN 侍にどう当てはまるのかという話を(やっと)していきます。
Make 侍 Noiseの中で、JAPONICA STYLEの演出は印象的だったと思います。
私はネタバレ歓迎するタイプなので、初日にがっつりレポを読み、JAPONICA STYLEを最後の晩餐スタイルでやったことを知り衝撃を受けました。
和のイメージがある曲なのに和服衣装を着たり扇子を持ったりせず、スーツで長いテーブルの前でやるんだ、と。
個人的初日は運良くアリーナ席通路側で矢花くんにハイタッチしていただいたことでかなり頭の処理能力が落ちていた、かつ後ろの方だったのでステージが少し見にくかったということもあり、
正直あまりジャポニカの記憶がなく、テーブルを乗り越えるって脱構築っぽいなぁとなんとなく思っていただけだったのですが
ゆゆさんのブログを拝読し、その発想にハッとさせられました。
以下、ゆゆさんのブログから引用させていただきます。
和に対しての異端さをスーツにグラスという独特な選択でまずは最初に表現して、その境界線(テーブル)を乗り越えた先で、和の表現の王道である桜吹雪の中で個性(スーツ姿)を失わずにパフォーマンスするのが侍。
↑この文の「和」の部分を「ジャニーズ」や「アイドル」に変えると、なんとなくこのライブで侍がやりたかったこと、大光くんが表現したかったことが見えてくるような。
Make 侍 Noise感想 - 好きな人やものが多すぎて。
噛み砕くと、「和⇔洋」とアイドルとしての「王道⇔異端」を重ね合わせて、
7 MEN 侍は“異端”でありながら“王道”のパフォーマンスもする、自分たちは「アイドル」だと示す表現だったんじゃないか
ということだと思います。
この演出、結構脱構築的だと思うんです。
「和⇔洋」という二項対立があって
和のイメージのある曲=和服衣装
それ以外の曲=洋服衣装
というイメージがあるので、和のイメージのある曲を洋服衣装でやってしまえば、この二項対立は崩されます。
まぁ現実的には着替えの都合とかで和のイメージのある曲を洋装でやることもそこそこあるでしょう。
でも、Make 侍 NoiseでのJAPONICA STYLEは、灯篭があったり桜吹雪が舞ったり、きちんと和の演出があった上で、洋装で踊る。
しかもそれが、和と洋の融合ではないと感じられるのです。単なる和洋折衷じゃない。
なぜなら、境界線であるテーブルを乗り越えるという演出があるから。
二つの要素の境界線を越えるなんて、まさに二項対立を崩す脱構築っぽくないですか?
続いて、7 MEN 侍のグループとしてのイメージについての部分も引用させていただきます。
これまで侍は「アイドルらしくないグループ」として扱われてきたと思う。
7 MEN 侍は異端児、反骨精神みたいなのがグループのイメージだった。これ、なんとなくバンドをやっているからだと思い込んできたけど、今考えればバンドが理由では無かったなと思う。だってAぇだって忍者だってバンドやるし……
そういう曲ばっかり貰ってたことから考えても、そういう役割を与えられていたからそう思ってた部分はあるだろうなと思った。
それって、めちゃくちゃ相対評価だったような気がする。ジャニアイみたいな場に立ったらそうなるのも仕方ないんだけど、美と比べたら、Hiと比べたら、侍はこう。みたいな。
そうやって、Hiと美の守備範囲を避けた先に侍に「個性」として与えられたダークさだったり逆境魂みたいなものって、もちろん素晴らしい個性には違いないし、私はそれがかなり好きだけど、見方によっては凄くHi美ありきのような気がする。
Hi美と同じことをやるグループじゃいけない。だから、Hi美のやらないことをやるグループでいなきゃいけない。自分たちにしかないカラーを。
そういう意識は少なからずあったと思う。
Make 侍 Noise感想 - 好きな人やものが多すぎて。
これ、まさにオリエンタリズムじゃないですか??
西洋がいらない役割を東洋に押し付けることで「西洋⇔東洋」の二項対立を成り立たせていた と説明しましたが、
「西洋⇔東洋」を「Hi美⇔侍」に当てはめるとまさに同じ構造になっていたんじゃないかと思います。
もちろん「Hi美⇔侍」の関係において、本人たちの間にいらない役割を押し付けるとかそういった強い力関係や優劣があったとは思わないですが、
オリ曲で煤けた雨を飲むような曲ばかりもらっていたというのは、大人たちが侍はそういうイメージで売っていこうと考えていたからだと思うし、
どちらを好むかはそれぞれの価値観ではありますが、「王道⇔異端」は言い換えれば「正統⇔正統じゃない」「アイドルっぽい⇔アイドルっぽくない」ということでもあり、“異端”の側に否定形が入る以上、“王道”は優、“異端”は劣というイメージがないとは言えないと思います。
そして、この構造を内面化し、“異端”を個性として売り出してきた。
これが今までの7 MEN 侍のグループとしての姿だったんじゃないかと思います。
でも、理論の部分で説明したように、この構造は簡単に崩せるんです。
7 MEN 侍は“異端”という役割を与えられていただけであって、“王道”の要素も持っていると示すことができれば脱構築できるからです。
それをやってのけたのがMake 侍 Noiseだったんじゃないでしょうか。
侍といえば“バンド”“ロック”というイメージのところ、バンドは最後の4曲だけ、ダンスもかわいい曲もおふざけコーナーもやる。
そして、JAPONICA STYLE。“和”と“洋”の境界を曖昧にする演出には、
“王道”と“異端”の境界を曖昧にする、侍は“王道”も“異端”もできる変幻自在なグループだ
と見せつける意志があったんじゃないかと感じられるのです。
脱構築って、救いになるんです。
優劣関係なんてなくなって、決められた役割を担う必要もなくなって、自由になれる考え方なんです。
だから、7 MEN 侍が縛られていた構造から自由になって、さらに大きくなっていくんだと思うと、これから先どんな姿を見せてくれるのかなぁとすごくわくわくする。
そんな素敵なアイドルに出会えて最高にしあわせ!!という気持ちです。
少し話は脱線しましたが、まとめると、
Make 侍 Noiseというライブは、7 MEN 侍が「王道⇔異端」という二項対立の構造から自由になることを表現するライブだったんじゃないかと解釈できる
、と思います!
…とまあ、勝手に理論に当てはめて勝手に解釈してきましたが、
実際どんな意図でこのライブを作り上げたのかはわからないわけで。
でも、嶺亜さんも
バンドというイメージがありますけど、バンドもダンスもやりますし、変幻自在の柔軟さというのを武器にしていきたい。その時に面白いと思ったものを作って行って“7 MEN 侍のライブって変化があって面白いよね”という変化を恐れないことを強みにしていきたい*1
と言っていることですし、
7 MEN 侍が変幻自在さを武器に、これから先色々なステージで色々なパフォーマンスを見せてくれる
ということは確実に信じられると思っています。
でもまずは、ほんとにこの夏ハードスケジュールだったと思うのでゆっくり休める時間があるといいなと思います。
矢花くんも休み欲しいって言ってたし、ね
7 MEN 侍本当にお疲れさま!!
最高の夏をありがとう!!!
ということで、今回はおしまいにしようと思います。
よくわからん批評理論を耐え抜きここまで読んでくださった方ありがとうございました!